○一下り目


真の豊かさということをうたわれた下りです。

豊かさとはものの量にあるのではなくて、互いにたすけ合うという心 を持った 人たちの間に、 豊かさがある、という、豊かさの基本を教えてくださった下りです。

一ッ 正月こえのさづけは
    やれめづらしい


 「肥えのさづけ」という言葉は十一下りにもありますけれども、 肥えを置 かずに作り取りという、豊かさの境地ということを肥えのさづけという 言い方で おっしゃっています。

 「めづらしい」は愛すべきことであるという意味です。
 豊年満作で、農民の働いたことが厚く報いられて、収穫が多く不自由 しないよ うな豊かさというものは何によってもたらされるのか、 それは肥 のさづけによってもたらされるのです。
そういう豊かさの境地になるということで それはも たらされるのだということです。

二ニ にっこりさづけもろたら
    やれたのもしや


 どんな人でも、真に豊かさになってゆくといったら 頼もしい ことだろう、ということです。
そしてそれは

三ニ さんざいこころをさだめ


と言い表して、そのためには、散財の心を 定めると いうことなのです。

これは「さんさい」ではなく、わざわざ濁点を打って、 「さんざ い」と濁っています。

散財の心というのは蓄財の心と 対比して 使われているのです。

 世間の人は豊かさというと蓄財をし、財を溜め込むことで 豊かであ ると考えていますけれども、教祖は散財の心を 定めなさ いとおっしゃっているのです。
定めたら、

四ッ よのなか


 「よのなか」と書かれていますが、これは「よんなか」 と発音し ます。

よんなかは大和、摂津、河内、和泉、淡路島などの 方言で、 豊作・豊か、ということを意味します。

「今年は柿がよんなかになりそうだ」というと、 柿がたく さん穫れる。
「あそこの家は女の子がよんなかや」というと、女の子が 大勢いる ということです。

 散財の心を定めていることが本当の 豊かさな のだと教えられているのです。

五ッ りをふく


 一ッ、二ッというときには、合掌の形で胸に取りますが、 五ッのと きは、かんろだいの側に手を添えます。

そして「りをふく」のときには六角形を自分の方に 型取る手 振りをするのです。

六人が六方からかんろだいを囲んで、 かんろだ いの教理がまた次のところで真理として、次々と世界に 広がって 行くということを表わしているのです。
そしてそうなったら

六ッ むしょうにでけまわす


勇んだ心でかんろだいの方に進んで行き、 世界中に その豊かさを及ぼすという意味の身振りを致します。

七ッ なにかにつくりとるなら

八ッ やまとはほうねんや


 教祖の許に来ている人たちは、農民が殆どでしたので、 「なにか につくりとるなら」の手振りは、 稲穂がなびいている姿で表わされているのです。

 何をするにも散財の心を定めてい たら、「 八ッ や まとはほうねんや」 その人のいるところは豊年満作、豊かであると おっしゃっているのです。

 説き始めたところが大和ですから、それが理解されたら 大和が豊 年だとおっしゃって、目覚めた人が たすけ合 いをしたところから その豊かさがあるのだ、という意味で教えられているのです。

九ッ ここまでついてこい


 「ここまでついてこい」というときは、 手で招く 手振りをします。

これは、この心境に早くなってくれという意味です。

十ド とりめがさだまりた


 陽気づくめという収穫量はこれによって 定まるの だということです。

 散財の心を定めたところに本当の豊かさがあり、 蓄財の心 を定めた人たちのところでは、一人が 財産を集めて 俺のものだといって鍵を閉めてしまったら、百人分の 食糧があ っても九十九人は餓死 しなければならないという状況になってしまうのです。


よろづよ八首
一下り目二下り目三下り目四下り目
五下り目六下り目七下り目八下り目
九下り目十下り目十一下り目十二下 り目  
神殿講話に戻るには、このページを 閉じてく ださい。