はじめに

「私の教理勉強」ということで、これから書かせて頂くことになりますが、「私の」ということになっておりますので、私が教理を勉強するときに、どんな心構えで取りかかっているのかということが、まず問題になってくるわけです。

 まず第一に、私の父、本吾嬬の初代会長は、大正四年に初めてお道を聞いたその日からおふでさきを読み聞かされ、次いで書き写し、約二年間連日おふでさきについて学んだというところからスタートを切っているのですが、それが私の方向をきめたようなものなのです。

 それからもう一つ、私の方向を大きく決定してくれましたのが、その初代が出直してのち、私が昭和二十五年春に天理大学宗教学科に入らせて頂いたとき、二代真柱様の言われたお言葉なのです。

 それは、「今度出た教典も、まだまだそこに使ってある言葉は、教祖がおっしゃったお言葉と違ったり、あいまいに使ってある点があるから、みんながしっかりと教祖のお言葉から考えてその誤りを指摘し、直していかなければならない。これからの勉強はそれだ」というように言われたのです。

 今度出たというのは、それより半年前に出たばかりの現在の教典なのです。
これが、おふでさき・みかぐらうた・おさしづに基づいて編纂した天理教の教義であると、真柱様が昭和二十四年十月二十六日に裁定されたのです。
それからまだ半年もたっていないのに、これが正しいと裁定された真柱様御自身が、まだ不勉強で教祖のおっしゃった意味とはしっかり合っていないところがあるから文句をつけて直していけ、と言われたのが、私らが大学に入ったときのお言葉であったのです。
これは非常に、きびしいお言葉なのです。

 それで、やはりその頃に「みちのとも」に真柱様が連載して下さった中に「教語解説」というのがあったのですが、それに関して、こういうことが書いてあるのです。
たとえばぢばという言葉一つにしても、ある先生は天理市全体にとっており、ある先生は本部にとっており、またある先生はかんろだいの据えられている地点だけがぢばというようにいろいろに話されているという例を真柱様が書かれて、そのあとに、「かかる例を耳にした私には、言葉は゛生きもの″として看過できぬ気持になりました。
それは、教理を自己勝手に流し、それを教語で語り、責任を教語に託して曲道に導入するからであります。
″ぢば″だけではありません。
″ひのきしん″や″ほこり″の解釈についても段々と都合よい様に解釈され、慣用され、それによって漸次、何れが本来の意味かを知らずして、通俗化して遺憾な結果をもたらすものとおそれたのであります。」(続ひとことはなし−その二)

 耳に入ってくることは、みんな神様が聞かしてくれたのだから本当だろうと考えてしまうのが運命論者というか、昔から何事も因縁で聞かされるのだと言う人の悟りであったのですが、それを直さなくてはいけないということを非常に強くおっしゃったのです。
これは真柱様だけでなくて、教祖のご態度がやはりそうであったのです。
天保九年十月二十六日以後の教祖のお話というのは、たったお一人から始まったのです。

 何しろその当時は、世界というものは負けたら大変なのだ、相手を負かさなけれは幸せにはなれないのだ、この世は生存競争の苦の娑婆であるというのが常識であったのです。
そしてこれは今日でも常識とされているのです。
ところが教祖は、たった一人でもって、この世界はたすけ合いの陽気づくめの世界である、とおっしゃったのです。
だから狂人だと言われた。
教祖のおっしゃったのは、まず常識ががらっと違うのだということです。
普通常識と言ったら大勢の考えることだと思うのです。
ところが教祖は、新しい常識をたった一人からつくっていくのだとおっしゃったのです。
二代真柱様は最後の訓話の中で、このことを天理文化建設という言葉で教えられました。

 世間では何と言っても、人を傷つけたら自分が傷つけられるのだ、こちらがいやな顔をすれば向こうもいやな顔を返してくるにきまっているのだ、何事もやったことは必ず返ってくるのだという因果応報の話が、ずっと長い間真理のようにお坊さんのロから、またインドの古くからの文書などで常識として流れていたのです。
ところが教祖は、そんな常識は真理ではないと言われたのです。
教祖は、反対するのも可愛い我が子という態度で、世間の常識は違う、何事もやったことは必ず返ってくるというようなことは間違いであるとお話し下さったのです。
足を踏まれても踏み返さない人がいることを皆の目の前に見せて、たった一人でも常識を変えていってみせるのだ、そうしなければ世界はたすからないのだというのが教祖のご態度であったのです。
ですから当時の常識と全然違うことを次々とお話して下さったのです。

 何しろ天保九年といえば、その前年には、お百姓が幾ら働いても食えない、これは何か政治が間違っているのだということで幕府の役人が幕府の米倉を開いて、さあみんな食べろと言って施してしまった大塩平八郎の乱が起こっているのです。
そういうように当時は、上に生まれた人はえらいので威張っていればいいのだ、われわれは朝から晩まで泥にまみれて働いても食えないのだ、それが世の中というものだと思っていたのです。
それに対して教祖は、それは全然違うのだ、人間には高低なく、みんなでたすけ合ったら陽気ぐらしができるのだ、それを間違った考えで間違った行いをしているから喜べないのだ、神様は世界中がたすけ合ったら喜べるように守護しいるのだと教えたのです。
しかし、こういうお心をみんなに分かるようにということで、今までの苦の娑婆だと言っていた人たちが使っている言葉でお話し下さったものですから、あっちこっちみんなが勘違いをしてしまったのです。
ですから、そういう教祖のお言葉を、ほんとうに教祖のおっしゃった意味に取り直さなければいけないということです。

 ところが、何しろ子供より親のほうがえらいのだ、親よりもおじいさんのほうがえらいのだ、というのが中国や日本の昔からの考えですから、御先祖様はえらいのだ、間違いなんかあるものじゃないと思っているのです。
しかし、
 これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。
 忘れるからふでさきに知らし置いた。
                  (明治37・8・23)
というお言葉から見ますと、教祖が長い間お話して下さったそのお話を忘れてしまったり、意味を違えて人に話したりしているから、それでは間違えないようにと書き残して下さったのです。
そのおふでさきの中に、
 なにもかもちがハん事ハよけれども ちがいあるなら歌でしらする       (一 23)
とありますのは、人をたすける真心でたすけ合いの陽気ぐらしをしなさいというように、ちゃんとお取次ぎがなされ、そういう心・行いができているならば何も文句は言わない、けれどもそこに違いがあるから、おふでさきで改めさせるのだと言われているのです。
ですから教祖のおそばにいる人でも、ときどき勘違いするような、その当時の常識とがらっと違うことを教祖はお話し下さり、その常識と違うことをおふでさきに書いて下さっているのです。

 よく私たちはお話をさせて頂くときに、神様に浮かばせて頂くという事を言うのです。
けれども、浮かぶままお取次ぎをするという姿は、よく考えてみるとずいぶんずるい話なのです。
これはたとえて言えば、私らは教祖の教を聞いて何年も勉強してきたことについてお話をするのですから、先生の事について私はお話をいたしますという生徒みたいなものです。
ところが今まで何年も習ったけれども先生が何を教えてくれたか分からなくなって、″先生、どういうふうに話したらいいでしょうか″と聞いたら、″それでは私が今まで講義したものをここにまとめておいてやるから、これに基づいて話しなさい″と私らにメモを下さった、おふでさきというのはそういうものだと思います。

 ところがそのおふでさきやみかぐらうたを読めばいいのですが、ろくに読みもしないで、どうぞ浮かばせて下さい、と先生のほうを向いているようなものです。
これではお取次ぎができるはずがないのです。
やはりおふでさき・みかぐらうたをしっかり読ませて頂いて、教祖のお言葉を忠実に受け取らせて頂こうという気持がなければいけないのじゃないかと思うのです。
 みかぐらうたの一下り目にいたしましても、
 三ニ さんざいこゝろをさだめ
というのは、みんなに喜んでもらえるような心を定めということであり、
 四ッ よのなか
というのは、大和弁で豊かということです。
みんなに喜んでもらうために施してしまったら自分は空っぽじゃないかというのが今までの常識なのです。
ところが教祖のおっしゃったのは、物というものは、自分は人よりも持っているのだぞと競争するために倉の中に積み、懐ろに入れて、相手を負かすための財産なのだと思ってしまい込んだら、どんなにあっても不自由するのです。
人に喜んでもらうためにこの物はあるのだと悟って生かして使ったら豊かなのですということであって、常識と全然違うのですが、実際にその心になってみたら教祖のおっしゃる通りなのです。
これは今までの常識と違う、本当に心も治まり人の世も治まるという新しい考え方を教え広めて、新しい常識としていくためのお言葉を、私らが中途半端に受け取ってはいけないということなのです。
ですからお言葉一つにしても、自分勝手にとるのではなくて、おふでさき・みかぐらうたではこういう意味でおっしゃっているのだということを、だんだんと突き詰めていかなければいけないのじゃないかと思うのです。