「たすけ」について

 そういうように考えてみると、もうすでに神様は陽気ぐらしできるところまで準備して下さったわけで、これを守護と言うのですが、あと陽気ぐらしをするかしないかは人間のやることで、その人間のやる心構えが変わることを「たすける」とおっしゃって下さっているのです。
今一番問題になっておりますのが、原子爆弾の事ですが、その原子爆弾をつくる物理学というものは、今ガンを直すのにも役立っており、またいろいろな検査などに放射能というものがものすごく役立っていて、原子力エソジソもどんどん動いているのです。
神様は、物理学の知恵もちゃんとたすけ合うようにつけて下さっているのですが、それを人を負かすために爆弾として使ってしまう人間がいるのです。
またたすけ合う医者の道具として使おうという人もいるのです。
同じ物でも、たすけ合う心で使えば陽気ぐらしになるけれども、人を負かしてやるのだという心で使ったら、こんな困ったものはないのだという事情を、
 月日にわどのよなものもわが子なり かわいばかりでみてハいれども     (十二 88)
 いまゝでハせかいぢううハ一れつに めゑめゑしやんをしてわいれども    (十二 89)
 なさけないとのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので       (十二 90)
というお言葉でお教え下さっているのです。
これは、神様にとってすべてが我が子だから、へだてなくたすけ合うようにみな準備しているのに、人間がそれを使い損って、相手を負かしてやろ うと、生存競争の欲の心で使ったら神様も情けないし、人間もみじめな姿になってしまう、人をたすける心がないのが一番いけないのだというようにおっしゃっているのです。
そうしてそのあとに、
 これからハ月日たのみや一れつわ 心しいかりいれかゑてくれ         (十二 91)
 この心どふゆう事であるならば せかいたすける一ちよばかりを       (十二 92)
と続いているわけで、これがお道が始まった意義なのです。
今までは苦の娑婆として暮らしていたけれども、これからは心を入れ替えてくれ、神様がたすけ合いの陽気ぐらしをしなさいとこの世界を守護して下さっているのだと教えられたのです。
この物や身体をお与え下さるには神様の深い長いお骨折りがあるのだ、そういう神様の思いを心に置いて通らせて頂くことが大切なのです。
そうしてそのあとに、
 このさきハせかいぢううハ一れつに よろづたがいにたすけするなら      (十二 93)
 月日にもその心をばうけとりて どんなたすけもするとをもゑよ       (十二 94)
というように「たすけ」ということをおっしゃって下さっているのです。
みんなが人をたすけるという真心になったときに、神様が一番望まれている喜びの心が湧いてくるのだ。
その喜びの心になったら病気などすることはないし、凶作になって物に不自由するようなこともない。
身体も丈夫に物も豊かにのびのびと暮らせる境遇は、たすけ合うという誠を持つところに現われるのだと教えて下さったのが、このおふでさきのお言葉なのです。

 こういうふうに心構えを変えて、みんなで神様の御守護を生かして陽気ぐらしできるようになることを「たすけ」というように仰せ下さったと思うのですが、その「たすけ」ということでも、世間の常識とは大分違うのです。

 世界で「たすけ」と言ったら、自分は何もしないで人がやってくれることだと思っているのですが、教祖の教えて下さっているおふでさきの中に出てくる「たすけ」というは、神様のお教に従って心を入れ替えその行いをしていくところに喜びがあるのだということです。
「おたすけ」とは、身上・事情の人の気ままな思いを手だすけすることでなく、世界をたすけたい神様の手だすけをするのが、教祖の道具衆であるよふぼくのつとめだと思います。
 たすけでもをかみきとふでいくてなし うかがいたてゝいくでなけれど     (三 45)
というお言葉にしても、この拝み祈祷というものは何かと言ったら、神様や仏様の前へ行って、どうぞ私にだけ何か御利益を下さいませ、とお願いするのが世間の信仰の姿なのですが、そういうように、自分の心のほうは変わらないで神仏の御利益を変えるのを拝み祈祷の信仰と言うのです。
それに対して、たすけ一条の道として教えられているおつとめやおさづけは、私が神様のお教え下さる人をたすける真心にならせて頂きますと変わることに一つの大きな意味があるのです。
おつとめは自分の心を治めるためのおつとめであり、おさづけはあくまでも身上の人に、私の言葉、私の行いを通じて人たすけの真心を持って頂きますと働きかけることで、人間が変わって喜びを味わっていく信仰だから、人間のほうに向いておさづけを取次ぐのです。
これが神様に願ったり神様の御利益を変えようというなら、神様に向かって行なわなければならないのです。

 また「うかがいたてゝいくでなけれど」の「うかがい」ということは、昔の神様というものはみんなの親などとは思わなかったのです。
神様とはこわいもので、好き嫌いがあると思っていた。
しかし何が好きだか人間は分からないので、どうしたらいいでしょうかと伺うわけです。
たとえば家の端っこに井戸を掘ったら金神様の頭に当たったから罰が当たったというようなことを言うのです。
これは人間には分からないわけで教えてもくれない。
知らない人は掘ってしまう。
それでたたったのだろう、それでは埋めてお祓いをしようということになるわけで、そういうところから神様の心は分からないというようなことが言われるのです。
また神様の好みということでも、たとえばキリスト教でも「汝安息日を聖とすべきことを憶ゆべし」と教えています。
これは神様が安息日に仕事をすることを嫌いなのだからやらないようにするための戒律というものです。
これは神様の好みに合わせて通ると御利益が現われるという信仰ですから、そういう戒律で教えられているのです。

 ところがお道には戒律は一つもないのです。
何々してはいけないということは何もおっしやっていないのです。
神様の心を「たすけたいとの心ばかりで」と教えられ、人をたすける真心でやるならば何をやってもよろしい、また人を困らせることであったならば、どんな事もしてはいけない、こういうふうに言われたのがほこりの教理です。

 たとえば、かわいいという言葉一つにしても、神様のお心は「かハいいゝばいこれが一ちよ」と言うのですから、これは神様のお心・誠の事を言っているのです。
けれども、神様のお心と同じであっても、また親にとって大切な心構えである、かわいいということであっても、一方だけかわいがって、片方をひがますようなかわいがり方はしてはいけないと教えたのがほこりの考え方です。

 このお歌は、「たすけ」とは、御利益を頂くために神様に願ったり、御機嫌をとったりすることでもたらされるものではないという意味です。
続いて、
 このところよろつの事をときゝかす 神いちじよでむねのうちより       (三 46)
とは、不思議なたすけ場所と言われ、現実に教祖が皆の目の前で不思議なたすけを次々と見せられるこのぢばは、神様の守護の増大を願い、かなえてもらう祈祷所ではない、人をたすける心構え・行いを身につけるために「よろつの事をときゝかす」いわば教育の場所である。
よふぼくは祈祷師ではなく、口で筆で行動でこの世治める真実を取次ぐ教育者であると言われたものです。
また続いて、
 わかるよふむねのうちよりしやんせよ 人たすけたらわがみたすかる      (三 47)
と言われておりますが、神様から御守護頂いているこの言葉、この身体でもって人に喜ばれる行いをしなさい、 自分が持っている物は人たすけに生かして使いなさい、そのたすけるという行いをしていくようになったら、喜びづくめで暮らせるのだと教えたのがこのお歌です。

 神様の御守護というものは、それこそあまねく、へだてなく、月日にたとえて下さるように私たち一人残らずにふり注がれているのです。
それを生かして私らの言葉や行いでもって、人にまでたすけ合って通りましょうという誠の心になって頂くことが、「たすける」ということであると教えて下さっているのです。

 私たちお道の人間は、この世はたすけ合いの陽気づくめの世界ですという、こういう言葉でもって、生存競争の苦の娑婆であるというような一つの常識をぬり変えていくのが、そのつとめじゃないかと考えさせて頂くのです。

 世間の常識で判断せず神一条の精神で通れという現真柱様の諭達第一号のお言葉も、そういう意味から言われているのではないかと思います。