〇十下り目


 病の元は心から、難儀するのも 病になる のも人の心遣いと行ないが 原因で、神が不自由 させるの ではなく、前生の業のなせる 業でもない、という ことを教 えられています。

一ッ ひとのこころとゆうものは
    ちょとにわからんものなりし


 教祖の御在世当時のみかぐらうたは、例 外なく、 「ものなりし」と過去 形で書か れていました。

 よろづ委細の元を知らない今までは、皆 、倒し合 い、物の取り合いで、お互いに 何を考えているのか、何 をしでか すのか分から ない状態だったのです。

 ここでは「ものなりし」と直して あります けれども、まだ「ものな るぞ」と 言われているのです。

 「し」と「ぞ」では 言葉の意 味が大変違います。

 過去形の「し」の場合には、教祖の教え を理解し 、おつとめをしている人は、す でに人の心をわかっ ている、 という意味です。

 おつとめの理を教われば、人間が生命 発生の時 にかんろだいつとめで表わされた、調 和の中で生れ たという ことを理解するのです。

 調和が崩れれば死に絶えます。
今生きているということは、即ち 調和がと れている、ということです。

 調和にそっていれば心身ともに快適に 暮らすこ とができ、人と人とが調和をつ くれば、陽気づくめ の世界が できるということです。
人の心がどうあるべきかを分かっているのです。
したがって疑心暗鬼で人を憎むと か、恐れ るということもないのです。

 他人に対して敵意をもつ必要 がないと いうことが分かってくる のが「も のなりし」という意味です。

二ッ ふしぎなたすけをしていれど
    あらわれでるのはいまはじめ


 「ふしぎ」というのは不合理という 意味では ありません。
考えられないような、素晴らしい ことを不 思議・不可思議とお しゃって いるのです。

 おつとめの理を知らない人にとって は、心を 正すと勇んでくるというこ とが、理解できない 不可思議 なたすけなのです。

 しかし、おつとめの理を知った 人には、 不可思議でも何でもなく、当然 繰り返される 素晴らし いたすけなのです。

 人間が発生してから数十億年、ず っと調和 の守護が続いてきているけれ ど、みなに分かるよ うに教え るのが「今初め」という意味です。

 この時の「あらわれでる」は、か んろだい つとめで教えられたこと を意味します。
つとめのぢばを意味する「あらわ れでる」 という円を描く手で 表わしています。

 おつとめの理合い、不思議なたす けの原理 を教えるまで、皆分からなかっ たという意味なのです。

三ッ みづのなかなるこのどろを
    はやくいだしてもらいたい


 「みづ」とは、教えとか、人間の 心映え、 思想を喩えている言葉です。

 「この泥」というのは、昔から 言い伝え られてきた迷信のことです。

 育ってくる間に蓄積された思想、例え ば、輪廻 転生を信ずる人たちの考え方、前生 に悪事をしたから 悪い境遇 に生まれるという迷信などです。

 こんな事例は過去の悪いことが返っ て来たか らとか、極端なのは、私が人を 困らせても、ある いは、相 手が怪我して私が怪我しない のは、私が昔 徳を積ん だから、などという居直った考え 方なども、長い間 に因果応 報の思想などが入ってきてしま った結果なのです。

 このお歌は、真理を、おつとめ の理を学 び、それから外れた、矛盾した根 拠のない昔からの迷信 を、早く 洗い流してしまいなさい、と いう意味 で説かれているのです。

四ッ よくにきりないどろみづや
    こころすみきれごくらくや


 我が身や我が子孫の繁栄を願うと、ど うしても 民族間の争いになります。
更に進むと、一族の中での 殺し合い 、物の奪い合い、支配 力の確保のために、 泥水でな く、血の海になってしまいます。

 教祖は、心の触れ合いで同じ心・同じ 志になっ て、納得できるたすけ合い が始まれば、賑やかに、他人 も我も喜 びの姿になると教えたのです。

 それが本当の極楽であり、極楽は 死後の世 界にあるのではなく、天然自 然の理を正しく 理解することで、この 世が極楽 になると教えてくださったのです。

五ッ いついつまでもこのことは
    はなしのたねになるほどに


 「話の種」というのは理の話のことです。
身体が生き通しであり、心はコロコロと変わるのです。

 そして、その心の真の姿は、教 祖がかん ろだいつとめで教えて いる、話の種です。

 人に馬鹿にされたのを悔しがり、い つか見返 ししてやると努力した末に、見 返せるような身分 になりま したという出世物語を、話の 種にしている人が大勢 いますが 、そのような話は、お 道の話の 種にはならないのです。

 話の種というのは、我が身や 我が子孫 の繁栄を願うのではありません。
我が身思案を持ったら地獄です。

 心を澄まして真理を理解し、矛盾 を取り去 れば極楽になるということです。

六ッ むごいことばをだしたるも
    はやくたすけをいそぐから


 真理はやさしい言葉で伝えるのです。
それは伝えるものの心構えです。
伝える者はやさしい言葉で伝え なければ ならないのですけれど、教えを聞くも のの心構えとして は、酷い 言葉で言われても、正しく受 け止めて 考えなさいということです。

七ッ なんぎするのもこころから
    わがみうらみであるほどに

八ッ やまいはつらいものなれど
    もとをしりたるものはない

九ッ このたびまではいちれつに
    やまいのもとはしれなんだ

十ド このたびあらわれた
    やまいのもとはこころから


 今までは病の元は前生の因縁とか、過去に 悪いこと をしたからと神や仏が罰を 当てたり、仕返 しする因 果応報だと説かれていま したが、 そうではないのです。

 自分の立場、自分の持ち味を活かして たすけ合 い、陽気づくめの理にそって 働いていれば、百十 五歳まで 生きるのも当然だと 教えています。

 心得違いをして、理に外れて いれば悩 みになり、ひいては身体 の変調をきたし て病の元 になっていくのです。

 人を 恨み、天を呪うのでは なく、自 分たち人間の心得違いを 怨みなさいと教え られたのです。

 たとえ、それが他人の心得違いが 原因であ っても、自分が改善して治すのです。

 しかし、病の元が心得違いなら、心 を治せば 治してくれるだろう、など と考えて はいけないのです。

 教祖はおふでさきに、心が理 に外れて 身体の病気や事情が起こり、取り 返しのつかない状況に なってし まったら、先ず心を改め なさいと いわれているのです。

 どうやってたすけ合うのか、自分の 本性はど うなのか、という原則に戻り なさい、心が治れば身 体は回復 の方に向かう、と書かれています。

 しかし、心得違いで作ってしまった 難儀や栄 養失調、何かの病気になってし まったという場合は、 修理や肥 えできちんと環境を 整備しなさい、医者や薬を使って 治しなさ いということをおふでさき で述べられています。

 神様が病気にしたのだから、心得 違いが原 因だというのなら、心得違い を治したら神様が 治してく れてもよいだろう、という 考えは拝 み祈祷の考えです。

 心得違いで矛盾を感じ、行き詰まっ たくらい ならすぐに治りますが、身体の 変調を起こして 病気になり、心を変え たのだか ら治してくれというのは、誰 に治してく れと言っているのか ということです。

 真理に基づいて陽気に暮らすのが、快 適に暮ら すのが、私たちのつとめで あって、それを疎かに して誰か に治せというのでは未熟 な人間の考え方です。

 教祖は、病の元は心、難儀するのも 心、前生 因縁ではないと、因果応 報を否定されたのです。


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